チョコレートだった時の話
肩の力が入りすぎている。
と。
確かにそうだった。僕は力を抜いた。
もう一度米に手をかけた。
僕は実験を開始した。とても力を抜いて。
機械がピピピピ…と鳴った。
0.1。
絶望的な数字だった。
そして海苔さんは言った。
実験をもう一度復習しよう。
僕は何度も教科書を読んだが、かえって混乱した。
タマコは優秀だった。
玉子(タマコ)は僕の幼なじみで、学校に入ってからどんどんとその才能を開花させた。
学業は僕と並んで1番で、実験だって得意だった。
人望もあった。
クラスで何かする時、みんなタマコに相談した。
先生だって、何かあると真っ先にタマコに相談した。
僕はタマコに
相変わらず鈍臭いのね
と言われた。
2回目の試験を終えた後だった。
僕は何も言いたくなかった。うんとだけ言って、目も合わせずに通り過ぎようとした。
タマコは、
そういえばあんた、ケーキ得意だったよね?
と言った。
昔の話だ。昔僕はよくケーキを作って遊んでいたのだ。
タマコもそれを知っていた。
僕は足早に廊下を通り過ぎようとした。
すると後ろから、
今度ケーキ作ってよね
と声がした。
僕は走った。彼女の声だけが、頭の中でこだましていた。
帰ってから僕は、何度確認したかわからないほど読み込んだ実験の手順を一から見直してから、死んだように寝た。
変な夢をみた。
夢の中で僕はまた実験に失敗していた。
不思議なことに、タマコは僕の先生だった。
そして彼女は言った。
今度ケーキ作ってよね…
翌週に追追試を受けたが、やはりダメだった。
今度はノリさんだけでなく、おかか先生もいた。
おかか先生は優しくて、今年産休から戻って来たばかりの一児の母である。
彼女は笑いながら、僕の名簿に不可のスタンプを押した。
ま、ね。こういうこともあるよ。何回かここで練習してみよっか。
と彼女は言った。
僕らは3人、試験室で何度も機械合わせを行なった。
薬品や機械のボタン、手順、米のセットの仕方などは何度も何度も確認した。
途中で何度もおかか先生が助けてくれた。
やっと僕は1.0を叩き出した。
そして海苔さんのお情けで、
うーん、まあいっか。
と言われながら合格した。
試験を終えた後、僕はケーキを作るためのスポンジを買った。
そして僕は一時間でケーキを作って隣の家まで行った。
玄関にはタマコが出た。
受かったよ。
と僕は言った。
ふーん。3回も受けたんだ。
と彼女はそっけなく言った。
彼女なら一発で2.5くらいの数値を叩き出したのだろうか…?
いや、聞くのはよそう。こんなことを聞くと暗くなる。
僕はケーキを差し出して、
じゃあ
とだけ言って、振り返りもせずに帰った。
翌日、タマコは僕のところに来た。
あんたさ、バカだけどケーキの才能あるんじゃない?
と言った。そのあと早口で
美味しかったよ。
と言った。なぜか彼女は幾分緊張しているみたいだった。
彼女は言葉を一つ一つ選んで、丁寧にゆっくり喋った。
ケーキ職人なんてさ、なれるの、何万分の一の確率かもしれないよね。
それで食べている人なんてほとんどいないからさ。
まあ、たまにいるけどね。
難しいとは思うよ。うん。
大スターだもんね。ある意味さ。
でもさ、あんたそういうの向いてるんじゃない?
わたしはよくわからないけどさあ。
周りにそういう知り合いもいないし…。
と、彼女は早口で言った。
うん。と僕は言った。
一年後、彼女は有名な国立の大学に行き、僕は専門学校に通った。
ケーキを作る学校だ。
彼女はもっと視野を広げたいとのことで、留学制度の豊富な、和食全般に関する大学に行った。
僕は少し羨ましかった。
いや、正直に言うとそうとう羨ましかった。
彼女はいわゆるエリートなのだ。
かたや僕と来たら、売れるかどうかもわからない夢に向かってすがりつく専門学校生だ。
僕は一時期、彼女に会うべきではないと考えもした。
彼女と僕とでは世界が違いすぎる気がした。
そのせいで2年くらい彼女には会わなかった。
しかし、転機は訪れた。
二年後、僕は主席となり、学校代表としてとある有名なケーキコンテストに出ることになった。
まぐれだったのかもしれない。
でもとにかく、僕は優勝した。
少し塩っぱいケーキを作ってみたのが審査員に受けたのだ。
試作にはまる一年を費やした。
僕はほんとうにほんとうに嬉しかった。
しかしそれからが大変だった。
僕は瞬く間にテレビに出ることとなり、本の出版依頼が舞い込み、なぜかわからないけれどトークショーに出ることになった。雑誌の取材もたくさん受けた。
そんな中、僕は学生時代の友達から大量のメールがきた。
恐ろしいものだ。どこから嗅ぎつけてくるのだろう。
僕とろくに話したことなんか無いやつでさえ、僕にメールをくれる。
僕の携帯はあっという間に100件もの200件ものメールが届いた。
雪だるま式に、それは日を追うごとに増えていった。
思えば、入学したての頃僕を殴ったやつだって、メールを送ってきたのだ。
どういう神経なんだろう。
面倒だから全部無視していた。
でも携帯を変えたって結局同じなんだろうな、と思った。
全く新しい携帯をもうひとつ持つべきかどうかを考えていたら、タマコから連絡があったことに気づいた。
僕は彼女に電話をかけた。
タマコは大学院に通い、順調だけども研究の辛さを実感している日々だと言った。
ぼくはそうか。よかった。応援している。とだけ言った。
自分のことは何も言わなかった。
タマコも黙っていた。
一瞬のことだったのかもしれない、
でもぼくにはそれが十秒くらいに感じられた。
じゃあまた今度会えたらね。
と彼女は言った。
いつでも会えるんだ
と僕は反射的に言った。
会おうと思えばいつでも会えるんだ、嘘じゃない。
半分が嘘で、半分本当だった。
だって僕はケーキ職人なんだ。
ケーキ職人がクイズ番組に出たり、オシャレな洋服を着て街を歩いたり、雑誌の写真を飾るのは馬鹿げている。
僕はケーキを作りたいんだ。
僕は本当にそう思った。
そして彼女にそう言った。でも彼女の答えは、
相変わらずあんたはバカね。
だった。
ため息混じりの声だった。ゆっくりとした発音だった。
あんたは何もわかってない。
確かにそうかもしれなかった。
でもわかっていても同じだ。そのあとの行動は僕が決めることだ。他の奴らなんてどうだっていいだろう??
そして彼女は本当にため息をついた。
僕らは電話を切った。
それから色んなことがあった。
僕は何度もコンテストで優勝し、世界大会にも出た。
いろんな記者に出会った。
いろんなすごい奴らに出会った。刺激的な日々だった。
大学でケーキ作りを教えることにもなった。
何人かの女の人と付き合った。そしてどれもダメになった。
原因は様々で、結果だけが毎回同じだ。
僕はもう恋愛は懲りた。
残ったのは研究室の助手と、うざいパパラッチだけだった。
なかなか良い人生だ。
もちろん皮肉だけれど。
僕の教え子が大会で優勝したこともあった。
時には、僕がコンテストの審査員になることもあった。
大学の試験問題も作るようになった。
僕は世間が羨むスターの道を、旗からみれば歩んでいたのかもしれない。
でも僕の心にはいつも何かが足りなかった。
足りないまま、ぼくは歩き続けた。そうするしかなかったから。
立ち止まると、闇に飲まれそうだったから…。
タマコは結婚した。
僕と最後の会話を交わした3年後だった。
今は女の子を二人産んで、相変わらず研究をしている。
もうタマコも母になったのだ。
旦那さんは、物流関係の研究をしているヒラメさんとかいう人らしい。
なんとなく腰の低い、優しそうな人だったと思う。
しかし、その道では非常に偉い人らしく、新聞やニュースにもよく出ている。彼の名前を聞くと恐れおののく社員もいるそうだ。
僕は相変わらず独身だ。
しかし、僕にはケーキがある。
ぼくはこいつと結婚したんだ。そう思うしか無い。
ぼくはケーキの女神に愛されているし、僕だってケーキの女神を愛している。
それで十分だ。
…多分。
そうだ。今度ケーキを作ろう。
また塩っぱいケーキがいいかもしれない。
それをタマコに送ろう。
あのとき、僕は彼女に救われたんだ。
高校のとき、実験がどうしてもできなくて、悩んでいたとき。
廊下でケーキを作れと言ってくれたとき。
あのとき、僕は彼女に救われたんだ。
僕はそのとき、彼女を一生守りたいと思った。
だから僕はケーキを作る。
ずっとずっと作り続ける。
ずっとずっと、僕のケーキで彼女を笑顔にする。
たくさんのケーキを作って、一番彼女が喜ぶものを作りたい。
そう思いながら、僕は大学でくる日もくる日も研究している。
最近はまた、京都の大学の奴らが力をつけて来たし、専門学校からも優勝な奴らが輩出されている。
パリでの国際コンクールでは、手厳しい評価ももらった。
しょっぱいケーキにはもう新しさは感じられない、との評価もあった。
僕は今、新たな食材探しの研究に出かけようと考えている。
僕はケーキを作り続ける。
最高のケーキができることを目指して。