阿部梅吉の日記

梅好きの梅好きによる梅好きのための徒然な日々

小説は感性ではなく論理で読むべきだっつー話


みなさんこんにちは。

理系だけども、頭は文系な梅吉です。


数字とかねー、苦手なんですよね。
計算が。
ベクトルとか証明は良いんですけど、どうも計算がすっっっっごく苦手らしいですね。
積分とかは、有る程度よく出る問題の答えを暗記してたから乗り切れたんですけどね。

死ぬほど数学は勉強したんですけど、多分できることならもうやらないで生きて行こうと思います。
僕はほ、ん、と、う、に、ミスが多いので…。

化学とかは好きなんですけれど。


でも、、、元から理系脳をしているやつは、やっぱり出来が違いますね。
もう、本読めばそれだけでパッとわかるんですよね。
本当にすごい。


僕は本当に数学で苦労したし、なぜ生粋の文学おたくのこの僕が数学をやったのかは永遠の謎です。

世界の三大七不思議の一つですね。

残り二つのうちの一つは、僕の両親がなぜ結婚したのか、ですね(悪い意味ではなく)。
やっぱり何かの縁なのですねえ。

もう一つの謎は…
なぜ人々はキノコとタケノコで争うか、ですね。
この争いが終わらない限り、僕は世界から戦争がなくならないとさえ思っています。
自体は結構深刻ですね(嘘です)。




僕が理系の大学に行けたのも、正直奇跡に近いところがあるように感じます。

これは客観的な観点からして。

だから理系に進みたい皆様、安心してください。
意外となんとかなります!(笑)


理系は実習が何時に終わるのかわからない、、、というところがありますが、それ以外は基本楽しい(と思います)。

僕はね。

あくまで僕は楽しいけどね。






こんな理系と言って良いのかわからない僕ですが、
今日は僕が前々から思っていたこと、小説の読み方について語りたいと思います。


率直に言いたいことを言います。


小説には正しい読み方って必ずあると思います。


でも、みんなよく考えれば分かりますよね。
よく、国語のテストで作者の意図を問う問題があるじゃないですか。

それです。

それ(作者の意図とか伝えたかったこととかその作品のコアな部分)をわかってて作品を論じているのと、それを曖昧にして(フィーリングで)論じるのはかなり意味合いが異なると思います。

しかし、しばしばこの二つは混同されがちなんですよね。

それを意識して行えてるのかどうか、ということにもよりますが、しばしばその見分けがつかない人が多いようで。


作品の意図を理解できる人は、たぶん
自分自身は好きじゃないけれど(賛成しかねるけど)この作品は価値がある(人を惹きつける、他の人が好きになれる要素を持っている)
って思えることがあると思うんですよね。

でも、完全に自分のフィーリングのみで生きていたら、そういう思考に至ることは無いですよね。

例えばマルクスが考えたこと、ヒトラーが書いた文章なんて僕は全然賛成出来ませんけど、やっぱり読む(あるいは研究する)価値が必ずあると思うんですよね。


僕はというと、実は歴史モノ(時代小説)が全くダメ。

単に歴史の知識があまり無いせいもあるし
(これの半分は学校の先生のせいな気もするし、僕自身の特性でもあると思う。いや、やっぱり僕の特性なのかな。)、
なんか無駄に美化してるのが逆に醒めてしまうんですよね(´・_・`)  

以前人に勧められて読んだけど…
(僕は一応素直なんだと思う)
うーん(笑)

普通かな(笑)

って感じでした。


でも、時代小説にも読む価値のある本は(当然)あるわけですよね。

その時代の史実の研究具合が素晴らしいとか、美化の仕方(それを僕らは演出と言います)が素晴らしい、とかね。


もちろん、ろくでもない本だってたくさんあるけれど…。


って、ここまで来て、
どうやったら正しく本が読めるのか(作者の意図が汲めるか)という疑問が湧きますよね。

ある種の人はそれを自然にできるんですけれど、もちろんできない人もいます。
それが大半です
(できないから、みんな国語を勉強するんですよね)。

ではどうするか。



理詰めで考える。



これしかありません。

え?国語に理屈必要なの?
って感じになるかもしれませんが、実は国語で最も大事なのは理屈です。

理屈っていうか、理由ですかね。
根拠っていうか。


例えば、

リア王には、実は300回以上natureという単語がセリフの中に出てきます。

(これは小説というより劇ですが、英文学でシェイクスピアは避けて通れないし、割と皆様に知られている作品なのでこれで説明していきます。)


これはなぜか??


この作品はリア王が三人の娘たちに領土(富)をあげるシーンから始まります。

上の2人(長女と次女)は、ものっっっすごいおべっかを使って、その富を得ようとします。
そこに肉親への愛は微塵もありません。

そしてリア王もまた、領土という富(目に見えるもの)を与えることでしか娘たちへの愛情を表現することができないのです。

そしてリア王は2人の詭弁にまんまと騙されて、悲劇を生むこととなってしまいます。

そうです。

この作品には自然な親子の愛情という形が見られません。

そこには不自然しかありません。

それを強調するために、わざわざ「自然」という単語が繰り返し出てきているのですね。



…と、ここまで来てわかったと思いますが、

小説を考えるにはキーになる言葉や出来事、何人称かなどに注目して行く必要があるということです。

これはコツといえばコツですが、ある意味で小説を正しく研究するには避けて通れない部分でもあります。


あと、理詰めで考えることが必要だとわかる文章は、

村上春樹の処女作『風の歌を聴け』ですかね…。

引用します。


「ねえ、私を愛してる?」
「もちろん。」
「結婚したい?」
「今、すぐに?」
「いつか……もっと先によ。」
「もちろん結婚したい。」
「でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わなかったわ。」
「言い忘れてたんだ。」
「……子供は何人欲しい?」
「3人。」
「男?女?」
「女が2人に男が1人。」
彼女はコーヒーで口の中のパンを嚥み下してからじっと僕の顔を見た。

「嘘つき!」

と彼女は言った。
しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった。



皆さんには、わかりますかね?
是非考えてみてください…。



それでは、少しモヤモヤさせたかもしれませんが、今日はこの辺で。

どうか皆様(私含む)が正しく文章を捉えられますように…。

しかしそのためには、書く側も必死こいて情報伝達スキルを上げなくては、ですね。
精進します。



それでは、明日も花マルで~U^ェ^U





【お知らせ】

「僕が書くことについて書く時に僕が書くこと」
は別サイトに近々載せようと思いますので、別途更新次第お知らせします。
暇つぶしに是非読んでください。